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東電債権放棄の議論と政治のガバナンス 門多 丈

2011年05月27日
枝野官房長官の東電債権放棄についての発言は乱暴である。原発事故についての政府や東電の責任について曖昧にする意図も読める。国の将来を見据えた構想と抜本的な対応策を議論するのが、政治の責任ではないか。
枝野官房長官が、銀行の貸付け債権放棄なしでは東電の公的支援について「国民の理解を得ることは難しい」と発言した。原発の事故までは東電は超優良貸付先であったのであり、貸付けに関する銀行経営の注意義務違反はありえない。どのような「けじめ」を枝野氏は求めているのであろうか。また債権放棄については「銀行の株主の理解を得る」ことも、同様に難しいのではないか。今回のような債権放棄が既成事実化すると、銀行は公共的な事業を行う企業への貸付けは躊躇する。社債権者の保護との関係をどうするかなども、官房長官はどう考えているのであろうか。日本の金融システムにも重大な影響のありうる問題である。

「国民の理解」を何のために求めるのかも、明確にすべきである。官房長官の念頭にあるのは、増税と電力料金値上げであろう。増税については、復興計画や国のエネルギー政策を前面に出し国民の信を問うべきである。電力料金については、発電・送電のコストにスライドする従来の決定方式で良いのかの議論になる。特に今回の原発事故の賠償コストを将来の料金決定のコストに安易に参入すべきではない。かつて原子力発電によって「安い電力料金」を享受したのであるから、そのコストを将来は(高い電力料金で)負担すべきという意見がある。事故の責任についての政府、東電の責任を曖昧にする危険な発想だ。件の官房長の債権放棄の発言は、これらの議論を避ける意図で行ったと勘繰られても仕方がない。

銀行が貸付け債権放棄を「合法的に」行なうためには、東電をグッド・カンパニーとバッド・カンパニーに分離することが必要であろう。グッド・カンパニーの構造の中で国の電力計画を抜本的に見直し、バッド・カンパニーの中に不良化した資産や債務を管理するという仕組みである。バッド・カンパニーには公的資金を注入するとともに、貸付債権の減額や放棄も検討する。その際にも、国や東電の責任についての「けじめ」の議論は当然なされるべきである。このような明確な枠組みの中で、国の将来を見据えた抜本対応策を打ち出すのが政治の責任ではないか。

(文責:門多 丈)

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